2006年9月のプチ日記

9月29日(金曜) 深夜

 もうダメだ。

 ぼくは似たような二つの言葉を混交してしまうクセがある。たとえば以前、シューズショップで「靴」と言うべきか「ブーツ」と言うべきか迷っているとき、気がつけば店員に話しかけていた。

 「すいません、そのブツ、ちょっと履いてみていいですか?」

 「クツ」と「ブーツ」が混成して「ブツ」になってしまったのだ。店員は一瞬キョトンとした後、何事もなかったかのように「ええどうぞ!」と。

 あのときもかなり恥ずかしかったが、今日もまたやってしまった。

 昼休みに同僚と雑談していたとき、イギー・ポップの話題になった。そこでぼくは、「パンク精神」と言うべきか「反骨精神」と言うべきか逡巡しているうちに、とっさに口にしていたのだった。

 「だからイギーは、そういうパン骨精神をね…」

 もうお分かりだろう。「パンク」と「反骨」が混交した結果、「パン骨(ぱんこつ)精神」になってしまったんである。周囲の面々からは「え?」「いまなんか言った!?」と訝られて。

 ああ、この間抜けな語感はなんだ。パン骨。ぱんこつ。パンコツ。こんなものは断じてパンクでも反骨でもないと自信を持って言える。

 もうダメだ。

 

9月28日(木曜) 深夜

 千年後の世界。

 「千年前に書かれた文章が発見されました!」とかいって、今ある巷のサイトにリンクが貼られたりするんだろうか。「いや、これはキャッシュページに過ぎない!」「そんなことはない、オリジナルページのテキストだ!」なんてな論争が起こったりして。

 そんなもん、どっちも一緒やがな。

−−−

 一昔前、「アルファ波ミュージック」なる音楽が流行したことがある。

 川のせせらぎの音なんかが延々と収録されていて、これを聴くとアルファ波が出るというのが謳い文句だった。

 アルファ波というのは脳波の一種で、人がリラックスしている時(=なんにもしていないとき)に多く現れる波形である。だったらわざわざ音楽なんて聴かなくても、寝床でゴロゴロしていたら自然と出るようにも思うが、要は「この音楽を聴けば心身ともにリラックスできますよ」というふれこみだったのだろう。

 ついには「ポップスをアルファ波ミュージックにアレンジしました」てなCDまで登場し、ビートルズとかビーチボーイズとかのヒット曲を「モワーンとした感じ」にアレンジしたものがそのまま市場に出回ったりしていた。「なんにもしてないときの脳波」を出させるために自分たちの曲が使われていることを知ったら、ビートルズの面々もきっと心中穏やかではないだろうと、他人事ながら心配になったのを思い出す。

 それはさておき、音楽ひとつで脳波を自由に変えられるなら、これは確かに便利かもしれない。

 ちなみに小生は、アダルトビデオのオーラルシーンの「チュプチュプ、クチュクチュ…」という音を聴くとすぐに寝てしまいます。寝付けないときはよく、この部分だけMDに録音したものをループ再生してるんですが、これってありがち過ぎて書くのも恥ずかしいですよね。

 

9月27日(水曜) 深夜

 最近気がついて、知人に教えてあげると喜ばれる豆知識でもひとつ。

 ドラッグストアやスーパーなんかの店頭にはたいてい、「本日の特売品」コーナーがある。普段は198円で売られている2リットルペットボトルが100円均一で売られていたりする例のやつである。

 こういう商品は客寄せのために利益を無視してディスカウントされていると聞くが、それだけに購買客が殺到し、店に立ち寄ったときには既に売り切れていることが多い。あきらめきれず店員に訊ねても、「店頭にあるぶんだけになります」と言われるのがオチである。

 ただ、商品が特売コーナーから姿を消していても、必ずと言っていいくらいあと数個は店に残っている。それはどこか? 

 答えは「その商品が本来売られている場所」である。

 たとえばペットボトルのお茶であれば、特売コーナーの在庫は空っぽになっていても、いつも置いてある飲料品コーナーには普段どおり数本が鎮座している。もちろん値札も普段どおりの198円なのだが、これをレジに持っていけば、特売価格の100円で購入できてしまうのだ(当日の価格を商品のバーコードで管理しているからこういうことになる)。

 大切なのは「ネバー・ギブアップ」の精神である。

 …実というと、「こういうことを書くと噂が広まって、今まで売り場に残っていた特売品までもが買われてしまうんじゃないか?」なんてな心配が一瞬頭によぎったのがかなり恥ずかしいんですが。ぼくの日記にそんな影響力があるわけないんですが。

 でも近々、もし店頭から特売品の残りが消え去る事態になったら、「実は自分のせいかも…」と一人でほくそ笑むことにします。

 あ、でもこれって、結局損してるやんけ!! 自己効力感と数百円とが天秤で揺れる。

 

9月25日(月曜) 夜

 今から7〜8年くらい前だったろうか、知人T君とインターネットについて語っていたときのことを激しく思い出している。

 当時ぼくはまだ大学に在籍しており、インターネットを見ようと思えば、大学のWebサーバにダイヤルアップ接続しなければならない時代である。それも夜11時からの「テレホーダイ」の時間帯には回線が混雑するから、何十回もリダイヤルしなければつながらない、運よくつながってもいつ切断するか分からないという代物だった。

 インターネットを見回しても、個人の「ホームページ」そのものがまだ数少なかった。ウェブを閲覧するのはもっぱら男性で、それもほとんどがエロサイト目的。だから、無修正画像を無料でダウンロードできるサイトを知っているだけで仲間内のヒーローになれた。

 「ホームページ」のほうも、それぞれが自分の「趣味」についてウンチクを垂れたり、マイコレクションを延々と文章で紹介したりというのがメインである。当時はまだデジカメ自体が珍しかったから(10万画素のカメラが5万円近くしたんだっけか)、写真を掲載したくても載せようがなかったのだろう。BBS(掲示板)とゲストブック(記帳)とが、どう違うのか誰もよく分からないまま並存したりもしていた。

 そんな中、T君はたまたま通りがかった個人ホームページを読んで、その内容に立腹した。確か「自分の好きな作品が酷評されていた」というようなことだったと記憶しているが、とにかく怒りに駆られて、発作的な行動に出た。

 「オレさ、そのページ読んでたらムカついてきて、勝手に編集してやったんだよ!」

 ええっ、いったい何をしたんだ!?

 だが、話を聞いて呆れた。T君はページが開いたままブラウザの「編集」メニューを選び、そこに表示されたテキストを書き換えたというのだ。

 ぼく:「アハハ、そんなことでWebサイトが書き換えられるわけないでしょ」
 T君:「なーんや、読者は勝手に編集できひんのか」
 ぼく:「当たり前やがな」
 T君:「読者が自由に書き換えられたら面白いのになァ…」
 ぼく:「そんなアホな話があるかいな」

 数年後、ウィキペディアが登場した。その成功と発展はご周知のとおりである。

 Web2.0とかオープンソースとかいろいろ言われてるけれど、T君にとってはネットに接したときから「できて当然」のことだったのだ。

 人の無知をあまり笑うものじゃないなと思うと同時に、ネットの「進化」って実はどんどん当たり前の方向に進んでいるだけなのかもと思う。

 リアルタイムで会議したり、買い物したりっていうけれど、そんなもん平安時代でもやってたましたやん。

 いくら世の中が便利になっても、それが当たり前になったら全然ありがたくないから愉快ですね。ないと不便なものだけは増えていく。

 

9月24日(日曜) 深夜

 手の指先の皮がどんどんめくれてきて気持ち悪い。

 つい自分でむいてしまうのだけど、あまり順調にむけると全身の皮がめくれそうで恐くなってくる。なので、ある程度で妥協してやめるのだが、やっぱり気になって続きをむいてしまう(むいた皮はもちろんビールの肴にする)。

 秋口になると決まって指先がむけるのは何なのだろう。冬用の皮に変わってるんだろうか。

−−−

 デパートではよく、「韓国料理フェアー」とか「北海道フェアー」なんてのが開催されておるわけでありますが。

 本日、近所のスーパーで見かけたフェアーはこれ。

 ローストンカツ一品でフェアーが成立してしまうのがスーパーの底力ですな。毎日がお祭りです。

 

9月22日(金曜) 深夜

 10月から京都市のゴミ回収が有料化される。

 一袋あたり50円程度の指定ゴミ袋でなければ回収してもらえなくなるのだ。

 聞くところによると、指定のゴミ袋は黄色地にロゴマークが印刷されているらしい。ということは、市販の黄色いゴミ袋を買ってきて、自分でロゴマークを描けば安くあがるんではないか。アクリル絵の具で模写すれば、それなりのモノができそうな気がする。

 …と半ば真剣に考えていたのだが、こんなことしてもしバレて、偽造罪なんかで逮捕されたら恥ずかしい。「ゴミ袋を偽造していた会社員逮捕!」なんてって、珍ニュース扱いされたりして。

 おまけに、数時間かけて描いたところで儲けは50円以下である。…こんなモンやってられるか!!

 やっぱり正規品を購入して、なるべくギュウギュウに詰め込んで出そうと思います。

 ゴミの量を減らそうという発想にはつながらないところが我ながらえらい。

 

9月21日(木曜) 深夜

 読者のかたが送ってきてくださった「本日のギター」です。

 海ガメのギター(成田空港の出国カウンターに展示されてあったとのこと)。

 GLAYがこのギターで登場したらびっくりするね。

−−−

 ええと本日、Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。

 今回のテーマは「プロジェクト〜北アルプスでタバコを吸う!」 。アルプスの山でタバコを吸うにはどうしたらいいのか、について説明しています。…すみません、単なる登山日記です。

 よろしければご覧いただければ幸いです。

 

9月19日(火曜) 深夜

 夕食に何を作ろうかとスーパーをウロウロしてるうちに進退窮まってしまった。

 「豚の角煮」にするか「キャベツと鶏肉の煮込み」にするか迷っているうちに、どうにも決断がつかなくなってしまったのだ。

 そしてクタクタに疲れ果てたすえ、結局「マーボー豆腐」を作りました。

  教訓: ケンカ両成敗。

 

9月18日(月曜) 深夜

 本日の。

きっと箱もさわられたんでしょうね。
ところでいったい何の箱だ!?
 
通るたびに「ああダンカンか」と思う。
何を意味してるのかはずっと知りません。

−−−

 映画館で『マッチポイント』を観た。

 本作品を論ずるにあたっては、ひとつの軸のみに終始してはいけないと私は考える。すなわち、評価すべきポイントを、多軸的な視点それぞれから述べることが重要なのである。したがって今回は、作品の魅力について、各ファクターごとに具体的かつ論理的に述べていきたいと思う。

 まず指摘されるファクターは、本作品が持つ「しっくり」加減である。これこそが、マッチポイントをマッチポイントたらしめている最大の要因であると考える。映画というメディアは、しっくりくるからこそ評価されるのであり、またその逆も真なりである。

 では、しっくりくるとはどういうことか? ここでは広辞苑第五版を引用する。

【しっくり】
物事や人心がよく合うさま。折合いのよいさま。「夫婦の仲が―行かない」
ちくりと刺されるさま。しっくりぼっくり。狂、鎌腹「―としたが鎌の先が当つたかしらぬ」

 つまり本作品は、観客の側にとって「よく合」い「折合いのよい」映画なのである。『マッチポイント』を評するに際して、このキーワードを抜きに語ることは決してできない。「しっくり」の次元から鑑賞することによって、ようやく作品を本質的に捉えることができるのである。

 次なるファクターは「楽しめる」点である。これについては種々の論議が存在するけれども、大切なのは言葉の定義である。同じく広辞苑第五版より抜粋。

【楽しむ】
たのしく思う。心が満ち足りて安らぐ。方丈記「深くよろこぶことあれども、大きに―・むに能はず」。「怏怏オウオウとして―・まない」
豊かに富む。平家物語1「仏御前がゆかりの者どもぞ始めて―・み栄えける」

 『マッチポイント』の作品像が少しずつ明らかになってきたであろうか。すなわち本作品は、「たのしく思う」と同時に「心が満ち足りて安ら」ぎ、なおかつ「豊かに富む」と換言できるのだ。このキーワードは、『 マッチポイント』の魅力を端的に表現する、示唆に満ちた日本語であるといえるだろう。英語に訳すならば"enjoy"となるのだろうが、こうするとニュアンスがやや違ってしまうところが文化的背景(cultural background)の難しさである。

 さらなるファクターは、観て「良い」ことである。良いと述べると一見、漠然としているように思えるが、辞書の定義を参照すれば自ずと意味が明らかになる。

【良い】
よい。狂、貰聟「おう、したら―・いわ」

 「良い」は「よい」ことに他ならないのであって、これ以上でもこれ以下でもない。あえて付け加えるなら、「優れている」という語彙を当てはめることも可能であろうか。英語圏の語彙で表現するなら"good"に相当する、非常に明確かつ的を射た形容詞であると言わざるを得ない。

 以上、視点軸のポイントごとに『マッチポイント』の魅力を列挙した。絵画解釈学の分野ならば"iconology"、犯罪心理学の分野ならば"psychological autopsy"に相当する切り口であり、映画に関しても同様のアプローチが必要であることは論を待たない。

 世のなかにはさまざまな映画評が存在するけれども、本論のようにロジカルかつ客観的な寄稿が増えることを望むばかりである。

 今回の映画評が、『マッチポイント』を観るにあたっての道標になれば、筆者として何よりの幸いである。

 

9月16日(土曜) 深夜

 映画館で『グエムル〜漢江の怪物』を観た。

 本作品を論ずるにあたっては、ひとつの軸のみに終始してはいけないと私は考える。すなわち、評価すべきポイントを、多軸的な視点それぞれから述べることが重要なのである。したがって今回は、作品の魅力について、各ファクターごとに具体的かつ論理的に述べていきたいと思う。

 まず指摘されるファクターは、本作品が持つ「しっくり」加減である。これこそが、グエムルをグエムルたらしめている最大の要因であると考える。映画というメディアは、しっくりくるからこそ評価されるのであり、またその逆も真なりである。

 では、しっくりくるとはどういうことか? ここでは広辞苑第五版を引用する。

【しっくり】
物事や人心がよく合うさま。折合いのよいさま。「夫婦の仲が―行かない」
ちくりと刺されるさま。しっくりぼっくり。狂、鎌腹「―としたが鎌の先が当つたかしらぬ」

 つまり本作品は、観客の側にとって「よく合」い「折合いのよい」映画なのである。『グエムル』を評するに際して、このキーワードを抜きに語ることは決してできない。「しっくり」の次元から鑑賞することによって、ようやく作品を本質的に捉えることができるのである。

 次なるファクターは「楽しめる」点である。これについては種々の論議が存在するけれども、大切なのは言葉の定義である。同じく広辞苑第五版より抜粋。

【楽しむ】
たのしく思う。心が満ち足りて安らぐ。方丈記「深くよろこぶことあれども、大きに―・むに能はず」。「怏怏オウオウとして―・まない」
豊かに富む。平家物語1「仏御前がゆかりの者どもぞ始めて―・み栄えける」

 『グエムル』の作品像が少しずつ明らかになってきたであろうか。すなわち本作品は、「たのしく思う」と同時に「心が満ち足りて安ら」ぎ、なおかつ「豊かに富む」と換言できるのだ。このキーワードは、『グエムル』の魅力を端的に表現する、示唆に満ちた日本語であるといえるだろう。英語に訳すならば"enjoy"となるのだろうが、こうするとニュアンスがやや違ってしまうところが文化的背景(cultural background)の難しさである。

 さらなるファクターは、観て「良い」ことである。良いと述べると一見、漠然としているように思えるが、辞書の定義を参照すれば自ずと意味が明らかになる。

【良い】
よい。狂、貰聟「おう、したら―・いわ」

 「良い」は「よい」ことに他ならないのであって、これ以上でもこれ以下でもない。あえて付け加えるなら、「優れている」という語彙を当てはめることも可能であろうか。英語圏の語彙で表現するなら"good"に相当する、非常に明確かつ的を射た形容詞であると言わざるを得ない。

 以上、視点軸のポイントごとに『グエムル』の魅力を列挙した。絵画解釈学の分野ならば"iconology"、犯罪心理学の分野ならば"psychological autopsy"に相当する切り口であり、映画に関しても同様のアプローチが必要であることは論を待たない。

 世のなかにはさまざまな映画評が存在するけれども、本論のようにロジカルかつ客観的な寄稿が増えることを望むばかりである。

 今回の映画評が、『グエムル』を観るにあたっての道標になれば、筆者として何よりの幸いである。

 

9月15日(金曜) 夜

 本日の散歩写真。

普通より10円安いことを強調したい気持ちは分かるのだけれど。
これじゃあまるで、トミー・リー・ジョーンズが「ほとんど110円」と言ってるみたいである。ハリウッド俳優のくせにセコすぎ。それも「ほとんど」だし。
 

脅かしてるつもりだろうが、なんだか牧歌的で笑ってしまう。というか、一体どうやって派出所まで持っていくんだ!?
「こんなモン持ってこられても困るよ!」と、巡査さんも大迷惑。
…あ、単に届け出るだけか。ちぇっ。
 

こういう店に4〜5人で入って、「みんな誕生日なんで」と言ってみたい。
 

 だいたいこんな感じで一日が過ぎていく昨今です。

 

9月14日(木曜) 深夜

 仕事の合間に竹やぶを探検していたら、見つけました。ガビガビになったエロ本。

 いやー懐かしい。

 いくら世のなかに無修正画像やエロDVDがあふれようとも、エロ本は存在し続けるのだ。ガビガビになってるというだけで、とてつもなく猥褻で淫靡な印象を受けるのは、きっと小学生時代の刷り込みのおかげである。

 捨てたのはおそらく地元の中学生か。きっとみんなで興奮しながら回し読みしたんだろうなァ。

 …などとノスタルジーに浸っていたところ、エロ本の傍らにじゃがりこの空箱が転がってるのを発見。なんだこの余裕は。

 やっぱり時代は進んでるんだな、と少し寂しくなりました。

 

9月13日(水曜) 深夜

 「孫が鳴った」のキーワードでGoogle検索してみたところ、ヒットしたのは0件でした。

 そうですか、やっぱり鳴りませんか。世のなか普通やね。

−−−

 この歳になっても、剛の者にあこがれる気持ちに変わりはない。

 剛の者がやるのは、たとえばウイスキーのラッパ飲みである。

 「ちまちまグラスに注ぐなんてしゃらくせえ。そのまま飲んだらええんじゃい!!」

 実は学生時代に一度、こういう姿にあこがれてウイスキーのラッパ飲みをやったことがある。飲み会の席でモテようと思って敢行したのだ。

 どうなったかといえば、飲み会がスタートした30分後には熟睡して反応がなくなった(らしい)。目が覚めたのは朝方で、店の玄関ソファーに寝かされていた。店はすでに閉店していて、傍らでは店員がせっせと掃除していた。

 飲み会の仲間は、いくら揺すっても起きないぼくを見捨てて先に帰っていたんである。

 「おまえ寝てる間にモテてたぜー」といった後日談もとくに聞かなかったから、おそらく作戦は失敗したのだろう。ウイスキーをラッパ飲みしたすえ30分後には寝てしまう奴など、よく考えたらモテるはずがない(起きていてもモテないことに変わりないのだけど)。

 しかしその後も、ウイスキーラッパ飲みへの憧れはなんとなく抱き続けていた。といって、本当にやったらすぐに寝てしまう。

 そこで本日は、気分だけでも剛の者を味わってみようと思い立ち、ウイスキーの空き瓶にチューハイを入れて飲んでみたのじゃい!!

チューハイをウイスキーの空き瓶に注ぐ

いくらでもラッパ飲みしてくれるわい!

…やってみたら、なんとも物悲しい気分になりました。人生万事がこの調子じゃい。

 

9月12日(火曜) 深夜

 本日の「世知辛いのう」。

 「中国産」という文字の「中」の部分にクリップしてあるので、あたかも「国産」のように見える。あやうく騙されそうになった。

 …でもこういうことって、ぼくも仕事でよくやっている気がしてきました。

−−−

 中国産の野菜って、農薬問題その他いろいろ気持ち悪いので、なるべく買わないようにしてるんですが。

 よく使うニンニクだけは、国産との価格差があまりに大きいので、つい中国産を買ってしまう。五倍六倍違いますからねえ。

 なんとなく悔しいので、「中華料理には本場中国のニンニクを使うのや」と自分に言い聞かせつつ。

 

9月11日(月曜) 夜

 「要するに」が口癖のFさんという同僚がいる。

 なにを言うにも、枕詞のごとく「要するに」。そのくせ話が長いからいやになる。

 今日もそうだった。社員食堂の日替わりランチが冷やし中華で、その麺の量がけっこう多かったものだから、皆で「食べても食べてもなかなか減らないねェ」などとコメントしていたところ、いきなりFさんが口を挟んできたのだった。

 「それって要するに、冷やし中華の底に氷を入れてないから、中身がぜんぶ麺になってて、そのせいで、見た目から想像するよりも麺が多くなってるから、食べても食べても減らないんですよ!!」

 …Fさん。この会話って、これ以上長くするほうが難しいんじゃないでしょうかねえ。要するに。

 

9月10日(日曜) 夜

 野暮用で実家に帰っておりました。

 以前にも書いたが、ぼくの母親は典型的な「モノを捨てられない症候群」である。

 周りからみればゴミとしか思えないものでも、当人にとっては何かに使えるかもしれないと映る。何かに使えなければ、無理にでも用途を見いだして「使って」しまう。

 こういった行為の背景には「使えるモノを捨ててしまったら取り返しがつかない!」という失敗恐怖(=強迫性格)があるものと思われるが、ぼくの母の場合は本人がちっとも困っていないから、家のなかによく分からない品々が増え続けることになる。

 ちなみに、母がとりわけ好きなのが「なにかの殻」である。貝殻だとか卵の殻だとか。

 今回は、こんな我が実家のコレクションの一端を紹介してみます。

帆立貝&アサリの殻の山
 
サボテンの傍らになぜかカキの殻が
 
庭に埋め込まれた帆立貝の殻
 
卵の殻の「塚」
 
 
ウーロン茶のパックまでが  

 まるで原始時代の貝塚ですな。

 なぜこんなモノを捨てずに置いているのか、改めて母に訊いてみたところ。

 ええと母上、サボテンの鉢植えにカキの殻を添えるのは、どう見てもワンポイントではない気がします。

 あまりに貧乏臭いので、泥棒よけとしては機能しているかもしれませんが。

 

9月7日(木曜) 深夜

 本日の中国料理です。

 ブームに乗じて、ちっとも民家っぽくないくせに「プライベートキッチン」を名乗ってる店も多い中、ここはプライベート感満点である。

 それとも本当にプライベートなのかもしれませんが。ただ自分たち家族のために中国料理を作ってるだけという。

 ぼくの部屋のベランダにも「素人料理」の暖簾をさげようかな。

−−−

 さて本日、Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。

 今回のテーマは「富士山のセキュリティ」 。 要はこのまえ富士山に登ったときのレポートなんですが、頂上でちょっとマズいことをやらかしてます。ネットに公開していいものかどうか迷ったんですが(って大げさ)、ひとつ大目に見てもらえたらいいなあと。

 よろしければご覧いただければ幸いです。

 

9月6日(水曜) 深夜

 ラッセンの絵の破壊力。

 彼の絵がどうしてこんなに忌み嫌われるのか考えてみると…

  1. 色使いのケバさゆえの侘び寂のなさ
  2. 題材のひねりのなさから感じる安直さ
  3. 「オレって絵が巧いだろう」的なタッチ(ハイパーリアリズム風)から受けるレティセンスのなさ
  4. 本人が日本の安直なバラエティ番組なんかで絵を描いてしまうバカっぽさ
  5. 描きたい絵というより売れそうな絵ばかり描いてそうな俗っぽさ

 他にもいろいろあるのかもしれないが、おおよそこんなところではないかと思う。

 絵画なんかを鑑賞したり飾ったりしようとする人たちは、多かれ少なかれ「アートに理解のある自分」を自己呈示したいものと推察される。となると、ラッセンみたいに分かりやす過ぎる作品では都合が悪い。ちょっと謎めいてよく分からない作品であるからこそ、「こういうのに理解がある自分」を演出できるわけである。

 だからウォーホルのTシャツは売れるけれど、ラッセンのTシャツは敬遠される。どちらも有名な芸術家なのにこの違い。

 写真にしたって同じことで、あまりにもベタな写真を部屋に飾るのは気恥ずかしい。マンレイなんかの写真なら飾れるけれど、富士山の御来光写真を飾るのはためらわれる。この場合、富士山の御来光写真がラッセンに相当する。

 ただ、ラッセンは写真ではなく、あくまでも絵画である。つまり、どんなものでも「ラッセンの絵」になる。これは使えるんではないか。

 ぼくに画才があればこういうのを描きたいところですが、能力がないので何ともかんとも。

 いやホント、ラッセンの絵は上手だと思ってます。上手だからこそ、新たなジャンルに挑戦してほしいと心から願う次第でありまして。コホン。

 

9月5日(火曜) 夜

 山登りから帰ってきてから、ずっと寝ておりました。

 登ったのは、上高地→槍ヶ岳→北穂高岳→奥穂高岳→岳沢→焼岳、というルートでした。このあたりは何度行ってもいいもんです。

−−−

 登山界では近年、ハイドレーション・システムというのが人気を博している。

 専用のウォーターバッグとチューブとが一体となったもので、これをザックに入れて使うと歩きながらチューブから水を飲むことができる。ザックをおろして水筒の水を飲むのに比べて、こまめに水を摂取できるからバテにくいというわけである。

 ぼくもさっそく使っているのだが、確かに大変便利&快適であるものの、飲み口が不潔になりやすいのが気になっていた。ザックを地面におろしたときなどに、飲み口に土がついてしまったりするんである。

 そこで今回、自作のカバーを付けて登山に臨んだ次第でありますが。

飲水時 収納時

 そしたら同行者の一人から指摘された。

 「名倉さんって、自然のなかで自分だけが清潔だと思ってるんじゃない?」

 自分でも少々潔癖症っぽくてかっこ悪いとは思っていたが、ここまで面と向かって言われると気が悪い。そこで咄嗟に口をついて出たのが、

 「逆ですよ逆! 自分の唾液で自然を汚したらダメだと思ってカバーしてるんです!」

 ここまで分かりやすいウソをついたのも久しぶりでした。

−−−

 あと、帰りのバスのチケットを取るとき、係員が部下に向かって怒鳴り声をあげていた。

 「なにやってんだ! 料金はこっちに入力しろって前も言っただろうがっ!!」

 でも、怒ってる上司の顔には「島」の字の影がくっきり映りこんでました。こんな島顔で怒鳴られてもねぇ。


 

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