8月31日(木曜) 午前
本日よりまたしても登山にでかけるので、数日間更新できないと思いますがご了承ください。
そういえば先週末、「ニッキソニック」という企画に寄稿させていただいてたのでした。時間限定で公開という企画だったので、今のところアーカイブはないんですが、せっかくなので自分のサーバにアップしておきます(OCNのサーバ容量が残り少ないのでジオのサーバです、すいません。って謝ることもないですか)。
よろしければ、ご覧いただければと思います。
8月29日(火曜) 深夜
本日のカボチャです。
とくに他意はありませんのであしからず。いやーしかし。
−−−
職場で、盲導犬について雑談していた。
ところでふと思う。こういう介助動物の相場はどうして犬なんだろう?
盲導犬の育成はけっこう大変らしいけれど、犬の寿命はせいぜい15年程度である。もっと寿命の長い動物に盲導作業をお願いすれば、育成にかかるコストパフォーマンスがよくなるではないか。
かしこくて社会性があって犬より長生きする動物なら他にもいろいろある。
…と書いてみて、やっぱり無理かなと思い直しました。
8月28日(月曜) 夜
本日の汁です。
チェーン系ドラッグストアで見かけたもの。
「青汁」のヒット以来、いろんな汁モノが出ているような気はしていたけれど、やっぱりありましたですか。映画『バカのハコ船』(青汁のヒットに目をつけた男が「赤汁」なる新製品で一発狙って大損するという愉快なお話) comes true。
とにかく赤いものを集めてみました感がたまらない。
気になって調べてみたら、いやーいろいろありますな。
緑汁 黄汁 黒汁 紫汁 白汁
さすが灰色の汁はありませんでした(考えてみたら「灰汁」はアクだ)。堂々と売ってたらびっくりするね。
8月27日(日曜) 深夜
富士山に登っておりました。
そして下山後、お楽しみの土産コーナーであります。
山梨限定ヒーロー「ヤマナシマン」。地域限定ブームの余波はヒーローも及んでいるようで。
なにしろ山梨限定のヒーローである。悪の化身と死闘を繰り広げていても、隣の県に逃げられたら一巻の終わりなのだ。
「…ちくしょう、静岡県に逃げられたかっ! みんな撤退だ!!」
こんなヒーローなら、ぼくもなりたいと素直に思う。
−−−
この調子だと全国にいろんなヒーローがいるんでしょうな。
岐阜県は「ギフマン」、高知県は「コウチマン」。この、そのまんま感がたまらない。
広島県などは「ヒロシママン」だと呼びにくいから「ヒロシマン」に。ますますいい塩梅です。
8月24日(木曜) 深夜
明日から泊まりで登山するための準備に追われてますもので。
簡単ながら全然関係ないことを。
高校時代、同級生のT君が美人の彼女と付き合い始めた。で、当初はかなり有頂天だったT君だったが、2回目のデートで彼女と手をつなごうとしたらフラれてしまったらしい。「そういうのが目当てな人とは私、付き合えない!」て。
そういうのって一体なんだ。手をつなぐのが目当て。手目的。
手フェチの変態性欲野郎だと思われたんだろうか。手などに興味を示さず、はじめから挿入すべきだったのか。
まァそんなわけはないんだけれど、なんにも考えずに書いてたらこんな文面になってました。オートマティズム日記ですな。
8月23日(水曜) 深夜
読者のかたが送ってくださった新聞の切り抜きです。
なにかと思えば、「夫77歳、妻71歳にしての初体験」との見出し。うわー。
『40歳の童貞男』という映画が公開されているけれども(いま観たい映画のひとつ!)、こちらは男女とも70代である。擦れ合ったところから煙が出て、ボヤ騒ぎにでもなったら大変ですよこりゃあ。
…と思って文面を読んでみたら、なんのことはない。夫婦ではじめてカブトムシの飼育に成功した、という風などうということのないお話でした。
ひょっとして小生、71歳主婦に「釣られ」てるんでしょうか。
8月22日(火曜) 深夜
家から15キロ離れた職場までサイクリング通勤してみたら、非常に心地よく居眠りできました。
本日思ったことなど少々。
そして本日の夕食は、二日寝かせたチキンカレーでした。こうして日々は過ぎていきます。
8月21日(月曜) 夜
本日のペイント。
こういうのって、どうやって描いているんだろうと前から思ってたのだが、下書きもせずフリーハンドで描いていたとは。
でもよく見ると、「週」の次の「貸」の文字がちょっと垂れててホラー映画っぽい。ホラー週貸しだろうか。
看板屋と見せかけて、実は落書きアートの人なのかもしれませんが。ええとほら、他人様の店とかによく分からない記号みたいなのを勝手に殴り書きしてる輩がおりますでしょ。堂々とやれば逆に怪しまれないの法則。
自分の店のシャッターが突然こんなことになってたらビックリするでしょうねえ。開店すればシャッターは見えなくなるからいいけど、閉店でシャッターを下ろすとき、ものすごく複雑な気分になるでしょうねえ。
落書きアート気取りでしょうもない記号とか書きなぐってる連中には、これくらい本気でやれと言いたい。芸術は本気だからこそいいのだ。
8月20日(日曜) 深夜
ペットボトルのお茶は割高なので、自分で沸かしたウーロン茶を冷やして常用している。
ただ、どうしても容器の内側が茶渋などで汚れてくる。そのつど洗うのも面倒なので、2リットルのペットボトルをお茶入れとして再利用し、汚れてきたら新しいものと交換する、というのを繰り返している。
月に一度くらいは交換するので、そのときは市販のペットボトルのお茶を開封して飲むことになる。ちょっと贅沢な気分になるひとときである。
それはまァいいのだが(ただの自慢話でした)、先日、おろしたばかりのペットボトルのキャップを紛失してしまった。うわあ、あと一ヶ月くらい使う予定なのに、キャップがなくなったらどうすればいいんだ!?
…と、ひとしきりパニックに陥った末。ケンチャナヨ精神で「まあいいや」と思い直し、キャップなしのままで今まで通り使ってみたところ。
冷蔵庫に鎮座するお茶たち
キャップなどなくても全然困らないんである。というか、キャップなしのほうが開ける手間が省けて都合がいい。
いままで何のためにキャップをしていたんだろう? 嗚呼いったい何のために!?
素朴な疑問がぼくの心を覆い尽くして、もう。本日はどないもこないもならしまへんわ。寝ます。
8月18日(金曜) 深夜
昨日の日記を読んだ知人から言われた。
「大文字のことよく知らない人が読んだら、普通の日記だと思われるんじゃない?」
失うものなどあまりないつもりだったけれど、やっぱりそうでもないことに改めて気付きました。
ええと。是非、本物の大文字送り火を見てください。…としか言えないんですが。
−−−
近いうちに日本アルプスを登山する予定なので、ルートマップを見ながら計画を立てたりしておるわけですが。
アルプスの雄峰である槍ヶ岳の近辺を調べていたら、こんなのが見つかった。
「天然クーラー」である。
このへんの登山道はどれもかなり険しいルートっぽいのだが(穂高岳系では滑落事故による死者も毎年出ている)、必死の思いでたどりついた場所が「天然クーラー」だったときの虚脱感たるや、いかほどのものか。想像するだに恐ろしい。
天然クーラーと言えば、ぼくの父親の口癖だった。
重い登山靴をはいて登った末がこんなものだったら、思わず死にたくなりそうですな。
※この地図の場所の「天然クーラー」は、岩の間にたまっている万年雪で冷やされた空気が吹き出てくるからだそうです。ふうん。
8月17日(木曜) 深夜
昨夜の京都は大文字の送り火であった。
他所ではしばしば「大文字焼き」などと呼ばれるけれども、京都でこれを言うと蔑まれる。大文字は「山焼き」ではなく、ご先祖様の霊を浄土にお送りするための「送り火」なのである。お盆の時期にもどってこられたご先祖さまを、再び浄土へとお帰ししな ければならぬ寂しさ、名残惜しさが込められた、美しくもかなしい送り火なのだ。
言い伝えによれば、茶碗に水を満たし、その水面に「大」の字を映して飲めば、ひとつだけ願いごとがかなうとされている。とはいえ、「金運が向きますように」などと私利私欲に走るのは野暮の骨頂である。ご先祖様の無事だけを静かにお願いするのが京都人の信心なのだ。
近頃では大文字の送り火を肴に酒盛りなどする若者の姿が目立つようになったが、これは誠に憂い深いことである。ご先祖様の霊がお帰りになるのを惜しむ送り火であるのに、その傍らで酒を飲んでドンチャン騒ぎするとはなんという無神経さであろうか。宴会をするのは勝手としても、送り火のあいだくらいは静かに手を合わせ、黙祷するくらいの気持ちがあってもよいのではないかと思う。
今年も大文字の送り火を静かに見届けた。私たちを見守ってくださっているご先祖様に感謝しながら、静かに写真機のシャッターを切った。
来年もまた、ご先祖様が無事にお戻りくださることを祈りながら……。
−−−
本日、Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。
今回のテーマは「 どんなときにタバコがうまいか?」 。 ここのところ能もないくせに風刺っぽいことばかり書いてて自分でも辟易していたので、今回はタバコが美味しく感じられるときについて、だらだらと思うままに書き連ねてみました。
よろしければご覧いただければ幸いです。
8月15日(火曜) 夜
本日の温泉です。
なんかピンク色の小さい紙が貼ってあるぞ? と思って近づいてみたところ。
少しでも目立たそうとしてか、精一杯デコレーションが施されてました。手描きのめんどくさそうな縁取り、三重丸による装飾、そして真ん中のよく分からない(でも妙に緻密な)垂直線。でもチマチマしすぎててちっとも目立ってない。
ただ、紙を大きくするのではなく、どんどん小細工するという姿勢に妙なシンパシーを感じる。人生の縮図やね。温泉水販売機やけど。
8月14日(月曜) 深夜
若ハゲから単なるハゲになりつつあるのがなんとなく寂しい昨今。
かといって、「まだまだ若ハゲですよ!」と言われると嬉しいかというと、そうでもないから難しい。
−−−
故・ナンシー関画伯が世に広めた「記憶スケッチ」。
個人的にかなり好きで、何人か集まるといまだにチマチマとやっている。
ちなみに昨日やった結果がこれです。お題はベーシックに「かまきり」。
最初に描いた人の作品 | 最初の人の影響モロ受け | どうして足が4本なのか | これはぼくが描いたもの |
ちっともおもしろくない記憶スケッチもあることが分かったのが今回の収穫でしょうか。
8月13日(日曜) 夜
新世界で飲んだくれておりました。
某チェーン居酒屋にて数人で飲んでいたのだが、ビールやら冷酒やらウイスキーやらしこたま飲んで機嫌よくクダ巻いていたところ、店員が突然声をかけてきた。
「お客様、本日ラストオーダーのお時間になりますけれども…」
なあんだ。まだ夜の9時だし、これからが佳境という感じなのになァ。でもラストオーダーじゃあ仕方ないよなァ。
…などとふらふらの頭で考えながら店を出て、そのままお開きとなったわけでありますが。
翌日、参加者のひとりからショックなことを聞いた。
居酒屋で飲んでいたとき、ぼくがトイレに立っているすきに、同席していた一人がウェイトレスにこっそりお願いしていたというのだ。
「いまトイレに行ってる彼が帰ってきたら、そろそろラストオーダーってことにして我々に声をかけてもらえませんかねえ」
本当の閉店時間はもっと遅かったのだが、酔っ払ってクダを巻いているぼくに愛想をつかしたW氏が裏工作を行っていたんである。
よく考えたら9時でラストオーダーになる居酒屋など聞いたことがない。でも、酔っているとそこまで頭が回らない。酔っ払いはラストオーダーにだけは敵わないのだ。
うっとうしい酔客からさっさと逃れたい方は、是非お試しになってくださいませ。畜生。
8月11日(金曜) 深夜
「白血病」というのは、白血球が異常に増える病気であるらしい。
その一方で「多血症」というのがあって、これは赤血球が多くなりすぎる病気である。字面だけみると血の気が多い病気のように思えるけれど、そうではなく赤血球数の異常だというからガッカリする(血の気が多すぎる病気は韓国の「火病」あたりになるんだろうか)。
多血症のネーミング法則にしたがうなら、「白血病」は「多白症」になってしかるべきだと思うのだが、「多白症」だと男性の場合、性欲過剰症のような印象を与えてしまうからいけないのかもしれない。
だったら白血病のネーミング法則にしたがって、多血症を「赤血病」にすればいいようなものだが、これはこれで当たり前すぎる印象を受けてしまうのが難点である。「血が赤い病気」だと思われたら、それこそガッカリではないか。
…と思ってさっき調べてみたら、「赤血病」という病気もちゃんと存在するみたいでした。なあんだ。よく分からないけどガッカリ。人生はガッカリにあふれている。
でも、病気のネーミングってよく分からないものがありますな。「血友病」だって、普通に読めばリストカット症候群みたいだし。
−−−
当たり前といえば。
最近失恋したという知人が言っていた。
「なんかホントに食欲がなくて…。食道も喉を通らないの」
失恋して「食事が喉を通らない」のは当たり前かもしれないけれど、「食道が喉を通らない」のは普通じゃないと思います。失恋はいいから、はやく病院に行け!!
シリアスな顔でこういう事を言われると、笑いをこらえるのに苦労するね。
8月10日(木曜) 夜
テレビで「どっちの料理ショー」を見た。
ここのところ、美味しそうな食材に対するコメントとして、「ヤバい」というのがすっかり定着している。本日の番組でもご多分にもれずだったのだが、つづく某ゲストのコメントはちょっと違っていた。
「ヤバいですよこれ!」
「うっわー!」
「まじヤバいいっすねぇ!!」
「ホント、こりゃマズいですよ!!」
同じコメントでは芸がないと思ったのかもしれないけれど、「マズい」はちょっとマズいんじゃないでしょうかねえ。
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全然関係ないが、テレビで思い出したこと。
第二次大戦で米軍と戦った経験のある祖父が生前、テレビでプロレスをやっているたびに言っていた。
「こんなのは演技や。ホンマにやったら相手は死んでしまいよるで」
「これ、軍隊やったらとっくに死んどるわ」
プロレスが軍隊ではないのは、今考えてもかなり当たり前だと思います。
皆様も、プロレスは軍隊ではないので、どうか騙されないように気をつけて! 全然似てないけど別のものなのですよ!!
8月8日(火曜) 深夜
台風接近中で。
天気予報では雨が降ると言ってたのに、ちっとも降らなかった本日。
ちなみに今朝、京都市内にて、傘を持ってジョギングしている人を見かけました(手ブレで画質悪くてすみません)。
走ってる途中で雨が降ってきたら…という気持ちは分かるけれど、どうせ汗でズクズクになるだろう。
せっかくのジョギングも、傘をさしながらでは形無しである。それとも駅伝なんかでも、雨が降ってきたら選手たちは傘をさして走るのか。
「傘の破壊力」を知らしめられる思いである。
…だいいち、台風のときは傘をさしちゃダメなんですがねえ。ジョギングのおじさん。
8月7日(月曜) 深夜
昨日の日記は、登山なんていう健康的なことをしてしまった照れ隠しでした。
だったら書くなという道理ですが。
−−−
でもせっかくなので、登山のときに撮った写真を何枚か。
痴漢に出くわしたとき、大声で助けを求めるのはいいとしても、携帯電話のカメラで撮影する余裕なんてあるんでしょうかねえ。
ためしにやってみたら所要時間は26秒だった。こんなことしてたら、パイオツのみならずお尻までも触られてしまうことだろう。
もしかしたら痴漢のほうこそ、己の痴漢行為を携帯カメラで撮影しているかもしれない。お互い撮り合いっこなんて、まるで仲良しカップルではないか。
そしてもう一枚。
今どき「ウヒヒヒ」なんて言う痴漢などいないと思うが、それはさておき。
これはどう見ても老婆だろう。性的倒錯でいうところの"gerontophilia"か。
倒錯の手合いは他にも、小児性愛、獣姦、屍体性愛、近親相姦、同性愛などなど数知れずあるわけでありますが。
昔はこういうのをひっくるめて「蓼食う虫も好きずき」と呼んでいた。おおらかでいい時代だったんでありましょうな。
8月6日(日曜) 深夜
山登りに行ってきた。
4時間かけて登り、2時間で下りてくるという、そこそこハードな登山である。こういうことを人に言うと、たいてい「どうしてそんなしんどいコトするわけ?」と訝られるのだが、理由はもちろん「そこに山があるから」ではない。そこに穴があったって落ちようとは思わないし、そこにウンコがあったって踏まないだろう。
山に登るいちばんの理由は「快楽を求めて」のような気がする。登っているときは確かにしんどいけれど、頂上に着いたとき、そして下山したときに体中からこみ上げてくる脳みそがとろけるような快感は、そうそう味わえるものではない。そのあとに飲むビールのうまさもまた別格である。
こういう快楽はとてもプリミティブなものだけに、理由なく感じるように身体がプログラムされているのではないか。我々の身体の構造が基本的には原始人時代から変わっていないことを考えると、山登りによって快感を得ることも至極当然のことのように思うのだ。
原始時代の祖先は他の動物たちと同じく、森の中で狩りをしたり木の実を探し回ったりと激しく肉体を使う毎日だったに違いない。もちろん、獲物がとれる日もあれば、収穫ゼロの日もあっただろう。
ここでもし、「肉体を酷使したあとに疲労だけが残る人類」と「疲労のなかに快楽を感じる人類」の2種類がいたとしたらどうなるか。収穫ゼロの日々が続いたとき、前者は次第に意気消沈して身動きできなくなる一方、後者は疲労困憊しながらも活動する気力が維持されるのではあるまいか。
自然淘汰の淘汰圧がどちらに有利であるかは自明だろう。疲労のあとに快楽を感じるプログラムを持つ人類のほうが、行動への志向が保たれるぶん滅びにくい。こう考えると、我々の身体が肉体的疲労のあとに心地よくなるのは当然のことともいえる。報酬系といわれる神経回路(エンドルフィンやドーパミンの分泌回路)は、このような摂理のもとに発展してきたのだろう。
ランナーズハイと呼ばれる現象も報酬系のなせる結果であるが、下山後のひと時のほうが、ゆっくりくつろぎながら快感を味わえる点で都合がいい。ビールなど飲もうものなら、疲労後の心地よさに加えて、喉の渇きがいやされる快感とアルコールによる快感とが同時におしよせるものだから、下手な麻薬なんかよりもすごい恍惚感を得ることができるんである。
なにかの成果を出すために身体を使ったり頭を使ったりするのもいいけれど、とくに成果がなくても気持ちいいのが登山のいいところだ。原始時代なら獲物をとるために山に入っただろうが、ただ山に登って下りてくるだけの登山はなんにも産み出さない。はっきり言ってムダ以外の何物でもないのだが、こうやって報酬系プログラムを逆手にとってる罪悪感がまたたまらない。
登山好きを自称する人たちは決まって、「自然と触れ合いたいから」とか「景色がきれいだから」とか理由をつけたがる。まァそういうのもあるだろうし、だからこそしんどさにも耐えやすいとは思うけれど、本当の理由は「快楽を得られるから」ではないかと思う。
皆さんもせっかく脳みそに報酬系を備えているのだから、山登りとかで上手くだまくらかして気持ちよくなるのも一興ですぜ。
8月4日(金曜) 夜
銀行口座の減りが妙に早いなァと思って調べてみたら、今月分の家賃を2回も振り込んでいた。
履歴を見てみると、どうやら先週末、酔っ払って家賃を振り込んだようなのだが、そんなことはすっかり忘れて今週も振り込んでいたのだった。
うわー、えらいことをしてしまった!
あわてて管理会社に電話して、恥を忍んで申告した。「あのう、間違って家賃を二回振り込んだみたいなんですけど…」
いったい何をどう間違えるのかよく分からないけれど、確認してもらったら、案の定二ヶ月分振り込んでいることが分かった。で、そういうことなら一刻も早く取り返さなければと思い、「あの、あの、返金はしてもらえるんでしょうか!?」と掛け合ってみたところ。
「返金はできますけど手数料もかかりますし、来月分ってことにさせていただいてもいいですか?」
確かにその通りである。来月分と考えればいいんである。
焦って返金を求めたのがつくづく恥ずかしい。きっと、健忘症のくせにセコいやつだと思われたことだろう。
健忘症のくせに、というのもよく分かりませんが。
それはさておき、今はなんとなく得をした気分にて過ごしております。幸せってこういうことなんだよ、とみんなに教えたくて……。
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しかし教祖さまはいいですな。
ぼくも宗教を立ち上げるなら、上述のような幸せを求める教義にしたいと思う。
まずは家賃を二ヶ月分振り込む。そして管理会社に連絡して、払いすぎた分を来月分に回してもらう。ああ幸せだわ!!
その後は当然ながらセックスである。一晩に2回いたす。そして教祖さまは言うのだ。
「無理やりしちゃったけども、2回じゃなくて1回だったんだよ。休憩をはさんだ長ーいプレイだったんだよ」
本来なら2回だった性的暴行が1回に減った幸せ。…こういうのが新興宗教の本質な気がしたりしなかったり。
8月3日(木曜) 深夜
ぼくの父は相当なもったいながりだった。
お歳暮なんかで時折、ヘネシーなどの高級ブランデーをもらっていた父であるが、もったいないというので水で薄めて飲んでいた。おまけに、金を出して水を買うなんてもったいないというので、ミネラルウォーターではなく水道水で薄めていた。
「ヘネシーの水道水割り」
いま思えば、こっちのほうが贅沢な気がする。
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ぼくの母も極めてもったいながりだった。
ずいぶん前のことだが、ヨーロッパ旅行帰りの親戚が上等な酢をみやげにくれたことがある(バルサミコだったろうか)。すると母は、ちょっとだけ舐めて「いい匂い!」とつぶやいた後、もったいないからと台所の奥底にしまいこんでしまった。
そして上等の酢は、存在すら忘れ去られたまま数年が経ち。
年末の大掃除のとき、たまたま発掘されたその上等の酢は、白くにごって得体の知れない液体になっていた。
これはこれで贅沢な話だと思う。
−−−
ぼくも勿論、もったいながりである。
学生の頃、背伸びして2万円くらいする上等のシャツを買った。…はいいが、調子に乗ってそのシャツで飲みに行ったら、酔っ払って油料理を盛大にこぼしてしまった。うわー。
でもクリーニングに出すのはもったいないので、自分で漂白剤につけてみたら、その部分だけが赤く変色して、とても着れないような代物になってしまった。
2万円のシャツを数回しか着ずにパジャマ代わりにする。これなどは贅沢以外のなにものでもない。
贅沢病は遺伝するのかもしれません。
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さて本日、Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。
今回のテーマは「 おせっかいは徹底すべし」 。タバコを吸うなとか、原付に乗るときはヘルメットを付けろとか、普通に考えたら余計なおせっかいだと思う事柄についてゴチャゴチャ物申してみました。妙にシニカルに書こうとしてる姿勢を冷笑していただければ本望です。
よろしければご覧いただければ幸いです。
8月2日(水曜) 深夜
そういや昨日の夕方、四条大橋を歩いていたらテレビのロケが行われていた。
「渡辺謙が雑踏をかきわけながら四条大橋を走り抜ける」というシーンで、カメラはどこだ? と見回したら対岸で回されていた。
周囲の人たちは誰一人として渡辺謙の存在に気付かず、ふつうに「かきわけ」られていたのがちょっと驚き。
その場にカメラがないと分からないもんなんですかねえ。渡辺謙。
−−−
知人と喋っていたら、「かしましゲル」という単語が耳に飛び込んできた。
なんじゃそりゃ? と思ったら、なんのことはない、あの鹿島茂氏のことだった。
というわけで、「かしましゲル」っぽい写真を撮ってみました。
どうやって撮ったかというと、「百円ショップで買ったランチョンマットにお茶を垂らした」だけです。
関係ないですが、我が家のコンソメはビタミン剤の空瓶に入っております。
パック入りコンソメのほうが安いから買ったものの、容器がないことに帰宅してから気がついた次第。
生活がどんどんショボいほうに向かう力には抗えません。
8月1日(火曜) 深夜
職場で昔のドラマについて雑談していたところ。
同僚のひとりが「愛してくれって言ってくれ、っていうのあったよね」と口にした。
「そういやあったね」「たしかトヨエツだっけ?」と普通に会話は進んだのだが、なんとなく違和感があるなあと思っていた。そしたらしばらくして、別の同僚が指摘した。「それって、愛してるって言ってくれ、だろ!?」
愛してくれって言ってくれ。分かるようで分からないドラマである。唐突に「愛してくれ」なんて言われても困るだろうし、こんなセリフを相手に求めるというのは、謙虚なんだか傲慢なんだかてんで分からないではないか。
だったらいっそ、「愛してくれって言ってくれって言ってくれ」でも似たようなもんである。
…てなことが本日あったんですが。
さっき念のためネットで調べてみたら、いやーヒットするわするわ。こういう言い間違いって、みんなしているものなんですな。
…と思ったら、糸井重里の『言いまつがい』にも載っていた。しょんぼりするね。
7月31日(月曜) 深夜
相変わらず、じゃんじゃんスパムメールが届いておるわけですが。
最近、こんなのが多くてなんとも言えない気分になってくる。
otearai様、otearai様と連呼されて。これでは「ゆとりと充実感」など考える気にもなりまへん。
−−−
あと近頃考えるのが、「30歳になったら○○をやめた」というセリフについて。
「20歳でやめた」だと、少しかじっただけで何も知らないくせにエラソーなこと言うな青二才! てなことになりがちだし、「40歳でやめた」だと、なあんだ40歳までやめられなかったのね、てなことになりやすい。
やはり「30歳でやめた」が一番かっこいいと言わざるをえない。
ぼくは30歳を機にやめたことなど何一つありませんが。 やめたいことは気がつけばやめてるし、それで困ってないのだから別にいい。