1月31日(火曜) 深夜
風邪をひいた知人が、毎日のように大量の風邪薬を飲んでいる。
いわく「風邪菌を殺して早く治りたいから」。
こういう人を見ると、世の常識ってなんなのだろうと不思議な感覚にとらわれる。「風邪薬を発明したらノーベル賞モノ」というのは誰もが知っていることだと思っていたが、実はそうでもないらしい。そもそも細菌とウイルスの違いも、実は知らない人が多いのかもしれない。
ぼくのような門外漢がこんなことを説明するのも気が引けるのだが、
といったところだろうか(ただしインフルエンザはまたちょっと別)。
だからぼくは、風邪をひいてもまず風邪薬など飲まないし、少々熱が上がっても「免疫細胞が頑張ってる証拠だね」と思ってそのままやりすごす。これまでの経験でも、高熱を出してどんどん汗が流れた風邪のほうが、早く治ることが多かった。
実際、ウイルス退治に効果があるとされるインターフェロンなんかの薬は、副作用としてすごい高熱が出るのが通例ではないか。
−−−
…なんてことを思っていたのだが、考えてみたらぼくも、世間では常識とされていることを全然知らなかったりする。
「自分は何を知らないのか」さえ分からないまま暮らしているのだから、これはもうどうしようもない。
自分が知らないことって、知っていることと似たようなところがありますな。自分が知らないってことを知らないから、自分は知っていると勘違いする。逆に、いろんなことを知れば知るほど、自分は何も知らないことを自覚していく。(昔からソクラテスが「無知の知」と言ってることだけど)
世界一の物知り博士は赤ちゃんなのかもしれませんな。「小生に知らないことなど何もない。バブー」って。
1月30日(月曜) 深夜
拍手ってよく考えたら、動物みたいな習慣だなあと思う。
職場でも講演やプレゼンの後、みんな当然のように拍手をしているけれど、やっているのは「手のひらを叩き合わせて音を出す」。パソコンでスライドショーしてても、スーツ着込んでても、やっているのは「手のひらを叩き合わせて音を出す」。
からだの一部をぶつけて音を出すのは、ゴリラのドラミングに代表されるように、動物界ではとくに珍しくないことなのだろう。人間の場合、手のひらを叩き合わせるのは違和感なく受け入れられているけれど、これが足の裏ならどうだろう。
「プレゼンが終わったら、聴講者全員が足の裏を叩き合わせてポコポコ音をたてる」
手が足に代わっただけで、原始人か類人猿みたいな光景になってしまう。拍手の妙ちくりんさが少しはお分かりいただけたろうか。
いやまァ、動物的だからといって、ダメだというわけでは全然ないんですが。拍手までもが電気機器化されてしまったら、世のなか味気ないことになってしまうに違いない。コンサートが終わっても、オーディエンスは手持ちの「拍手音発声スティック」を押してパチパチパチ…。あまり想像したくない世界である。
すくなくとも、事あるたびにヒューッ! なんてって口笛を鳴らすような文化よりはずっといい。
1月29日(日曜) 深夜
昨夜は久しぶりに大酒飲んで、精神的にひっくり返ってました。
記憶がかなり飛んでいるのだが、同席していた友人の友人(自動車整備士をしている)に激しく訴えてしていたらしい。
「自動車整備士っていうのは、情熱が必要な仕事なんですよっ!」
「もっと熱い心を持って自動車に向き合おうじゃないですかっ!」
自動車なんて普段ちっとも乗らないくせに、こんなときだけ突然クダを巻いて。相手もさぞかし呆気にとられていたことだろう。
酒は心底、人を馬鹿にする液体だなと痛感してます。
−−−
電車に乗っていたら、隣の乗客2人組がホリエモン容疑者について憤慨していた。
「金もうけも、あそこまでいくと狂気だね」
狂気なら、責任能力を問えないってことで無罪になるかもしれませんね。重度の金銭依存症に陥っていたため、被告は正常な判断能力を失った状態にあった、てなことになって。
これではマズいだろうから、憤慨するときにおいても、言葉は慎重に選ばなければならない。
「金もうけも、あそこまでいくと狂気とは思えないね」
1月27日(金曜) 深夜
会社帰り、駅を降りてから、ひたすら夜道を歩いていたわけですが。
改札口で少し前にいた女性が、いつまでもぼくのすぐ前を歩き続ける形になったので閉口した。大通りに出て、橋をわたり、狭い路地裏に入っても、女性はずっと前方を歩き続けているのだ。
相手のほうも、ずっと背後に位置しているぼくの存在に気づいたようで、ときどき振り返っては歩く速度をあげていく。夜道なのも悪いのだろうが、あからさまに警戒されているのだ。
ああ、そうじゃない! ただ偶然、帰宅ルートが同じなんだってば!!
…と叫びたくなったが、叫んだところで、ますますマズいことになるのは自明である。
そこで急きょ、いちばん手前の交差点を曲がってやりすごすことにしたのだが、間の悪いことに、次の交差点でまたもや彼女と鉢合わせしてしまった。
引きつった表情で携帯電話を取り出す彼女。…うわっ。
ぼくのほうもつい、そこで立ち止まってしまった。いたたまれなくなって、とっさに駆け足で立ち去ってしまった。
ああ、もうダメだなと思いました。どうでもいいことが破局を迎えた瞬間。
−−−
気分直しに、実家で撮影した電話機の写真をひとつ。
実家の電話機を見ると気が抜けて、たいていのことがどうでもよくなってきます。
1月26日(木曜) 深夜
うちの職場では各自、ペットボトルのお茶を持ち込んで飲んでいる。
ぼくも本日、ペットボトルのお茶を用意してデスクワークに励んでいたのだが、しばらく経ってから飲んだら違和感をおぼえた。なんだか腐ったような異臭がしたんである。うわ、異物混入か!?
心配になってきたので、前に座っている同僚にボトルを差し出して尋ねてみた。
「このお茶、腐ったようなヘンな臭いがするんだけど…。ちょっと飲んでみて!!」
突然こんなこと言われて戸惑いながらも、ボトルをくんくん嗅ぎはじめた同僚。
すると隣席に座っていた女性が声を上げたのだった。「あの…。そのお茶、私のなんですけど…」
途中で席を立ったりバタバタしていたので、ぼくは隣席の女性社員のペットボトルを手にとってしまったのだ。おまけにそのお茶は、女性社員が自宅で沸かしたものを詰めてきたものだという。
彼女が沸かして持参したお茶を飲んで、「腐ったようなヘンな臭いする」なんてって大騒ぎしてしまった愚行に気づくも後の祭り。
いよいよどうしようもなくなってきました。
1月25日(水曜) 深夜
懲りずにまた「ティッシュ料理」に挑戦しました。
前回作ったハンバーグでは、ティッシュがクシャクシャする点が気になった。ミンチという素材が柔らかいために、歯ごたえのあるティッシュとの相性が悪かったものと思われる。
そこで今回は、ティッシュの歯ごたえを生かせそうな一品を選んでみました。これまた好物の唐揚げです。
◆鶏肉の下ごしらえ鳥の唐揚げの材料:
・鶏もも肉200g
・ティッシュ9枚
・片栗粉
・鶏卵1個
・卵1個
・しょうゆ
・ごま油
・塩コショウ
・サラダ油鶏もも肉をブツ切りにします
ブツ切りにした鶏肉を一つずつティッシュで包んでいく
二枚重ねのティッシュだったので、「一枚包み」と「二枚包み」、「四枚包み」の3バージョンを作りました
念のため「ティッシュで包まない鶏肉」をひとつだけ作ってしまった
鶏肉に片栗粉をまぶし、卵と醤油を加えます
◆いよいよ揚げる!!中華鍋にサラダ油を熱して、カラッと揚げていきましょう。
たっぷりのサラダ油で揚げるのが美味しいとされていますが、もったいないので油の量をケチるのがいいとぼくは思います。
料理の真髄は「妥協」なのです。
さらにごま油と塩コショウで味を調えます
激しく、かつ優しくコロモをからめしょう
サラダ油の量をケチるのがオレ流
そして、揚げたての唐揚げの出来上がり!!
で、おそるおそる口に運んでみたところ…。
これは美味い! なんとなーく普通の唐揚げの食感とは異なり、春巻っぽさがあるけれど、ティッシュが口にからむこともなく、サクサクとジューシーに食べられる。 (ちなみに四枚重ねのやつは、噛み切るのに恐ろしい力がいるので、あごの筋肉を鍛えたいボディビルダー向けです)
とくに美味かったのが、一枚しかティッシュを包まなかったやつ。まるで、ティッシュを包まない普通の唐揚げ並みの旨さです。
これなら来客に出してもバレませんぜ。こっそりティッシュを食わせる悦楽を味わいたい方はぜひ。
1月24日(火曜) 深夜
近所で少し前から、新しいマンションの建設がはじまった。
で、近隣の住民のために作業のスケジュールが貼り出されているわけですが。
いつ見ても、たいそうのんびりしたスケジュールだなァと。今週の予定に至っては2日だけである。
いま流行りのスローライフとかいうやつでしょうか。それともクラスに一人はいた、試験前になると「オレぜんぜん勉強してないよー」とか言いながら実は猛勉強していた奴のようなものでしょうか(なんのためだ!?)。
あと、「墨出し」とか「アンカーセット」とか言われても、素人には何のことかさっぱり分かりません。ここに「大回転」とか書かれても、ふーんそうなのかと思ってしまうに違いない。
明日25日は「アンカーセット」の日。ああ、アンカーセットが行われるんだな、と思うばかりである。
−−−
ちなみにぼくの明日の仕事スケジュールは、「机上作業に於けるREM睡眠ならびに体躯の強力前後運動」が主軸となる予定です。ガンバルゾ!!
1月23日(月曜) 深夜
近所のスーパーで夕飯の材料を買い終わったとき、ふと思い出した。
あっ、しまった! 上司から買い物を頼まれていたんだった!!
勤務先の事情でマイクロソフト"PowerPoint"が急きょ必要となったのだが、経理を通して注文したのでは間に合わないので、ぼくが帰宅途中に買うことになったのだった。
幸いぼくは電気店街の近くに住んでいるから、こういうときに便利である。スーパーのすぐ近くにあるパソコン店にそのまま立ち寄り、無事ソフトを購入できたわけでありますが。
パソコン店のレジでつい、いつものように言ってしまった。「袋、一緒でいいので要らないです」
大根や唐揚などが入ったスーパーの袋に、"PowerPoint"を放り込んで帰宅しました。店員の視線がいつもと違ったような気が。
近いうちに、ネギを買ったついでにノートパソコンを買う日が来そうな予感。べつにいいんだけど。
−−−
ちなみに昨日は、スーパーでアイスクリームの特売があったので何個も購入して。
で、その足で近くの薬局に行き、ホッカイロをまとめ買いしました。大量のアイスクリーム抱えながら。
周囲の客からチラチラ視線を向けられていたような気がしたけれど、きっと思い過ごしだろうと信じたい。
1月22日(日曜) 深夜
スパンコールって、なんかやらしいことだと勘違いしてました。
それはさておき、さっきふと思い出したこと。
大学院の頃、学内同士で付き合っているA男君とB子さんというカップルがいた(もちろん仮名)。
ある日、B子さんがネットの掲示板での論争に巻き込まれた。B子さんはそのことをA男君に相談したのだが、A男君はB子さんのことを批判するような発言を掲示板に書き込んだ。そして2人は大ゲンカになってしまったのだった。
「掲示板のネットバトルに参加して自分の彼女を批判する」
いま思い出しても、なんだかすごいのかすごくないのかテンで分からない話である。でも普通、こんなことしないよなァ。
ま、どうってことない話なんですが、あり得なさそうなことがあるのって、どこの世界でも同じなんでしょうな。
1月20日(金曜) 深夜
メールをチェックしたとき、スパムメールらしき文面だと反射的に削除してしまう。
スパムメールらしき文面というのは「過剰な装飾がほどこされたテキスト」なわけだが、考えてみればこれ、なるべく目立たせたいがために行われている工夫である。なるべく多くの人に読んでもらいたくて装飾競争になった結果、「装飾されていればいるほどすぐに削除される」という、なんとも皮肉なことになっているのがちょっと可笑しい。
勤務先にも大量のスパムメールが届くので、どうしているのか同僚や上司に尋ねてみたところ、おおよそぼくと同じだった。すなわち、件名が英語であったり、文面の装飾が過剰であったりすると、ほぼ反射的に削除しているのだと。
ただ、ものは考えようである。「目立たせたいテキスト」がそのまま破棄される傾向がコンセンサスになっているなら、これをビジネスシーンに生かさない手はない。たとえば納期の遅れなど、上司や先方には報告しにくい内容であっても、スパム文章術を使えば、読まれないまま削除してもらえるのではないか。
そうなれば神経をすり減らす軋轢は生じないし、読まなかったのは相手の責任である。よっしゃ!!
…というわけで、さっそく試しに作ってみました。
これで先方が読まずに削除して「例の契約の件、どうなってるんですか!?」などと言ってきたら、「だからあれほどメールで強調させていただいたんですが…」と申し上げましょう。
よければ皆さまも、お使いください。 ★☆それで会社をクビになっても当方は責任を負いません♪☆★
1月19日(木曜) 深夜
かなり恥ずかしい思い違いをしていたことが発覚。
「マジパン」ってお菓子のデコレーションの一種だったんですか。さっきネットで調べてみたら、アーモンドペーストと砂糖を練って、花とか動物とかの形にしたものなんだそうで。
マジパン=食パンとかクロワッサンとかのことだと、なんとなく思っていた。
【マジパン】
食パン
クロワッサン
フランスパン
バターロール
【非マジパン】
カレーパン
あんぱん
コロッケロール
やきそばパン
だから、「マジパンってどうでもいい」てな文章を読んでも、「ああ確かにね」と思っていた。惣菜パンのほうが美味しいのは同感だと思っていた。
語源はよく分からないが、「マジ(本気)のパン」もしくは「マジメなパン」のいずれかだろうと漠然と思っていた。
なのに、お菓子のデコレーションだったとは。ああ猪口才な!!
どうせなら最後まで勘違いしていたかった。誰に喋ったわけでもないけど、こういう思い違いをする自分が小っ恥ずかしくて仕方ない。
−−−
さて本日、Go smoking に書かせてもらってるコラムが更新されてます。
今回のテーマは「繰り返される最先端」。 内田百閧フ随筆「女煙草」を紹介しつつ、流行について鈍くごちゃごちゃと書いてみました。流行に疎いぼくのような者が、こういうことを書いちゃダメという気もしているんですが。
よろしければご覧いただければ幸いに存じーます。
1月18日(水曜) 深夜
近所のクリーニング屋の会員になったとき、1月生まれは損だなァと思った。
会員になると種々の特典に加えて、誕生日にはクリーニング30%OFFチケットが送られてくるのだが、1月といえば寒いさなか。クリーニングに出す洋服などありゃしないのだ。
大きな洋服を洗うのは季節の変わり目であり、衣替えの時期であるから、4月だとか11月とかが誕生日だと非常に都合がいい。
…と考えて、去年の秋に新規会員になったクリーニング屋では、誕生日の欄に「4月5日」と書いておいた。
以来、ウソの誕生日が書かれた会員カードを見るたびに、さもしくて涙が出てきそうになります。
−−−
全然関係ないけど、ティッシュペーパーを見ると、どれも「ティシューペーパー」と表記されている。
英語だと"Tissue"だから、確かに発音は「ティシュー」である。でも、こんな風に発音してる人に出会ったことがない。これがどうしてなのか皆目分からず、ネットで調べてみてもヒットせず、本日は途方にくれておりました。
だったら「ビッグイシュー」は「ビッグイッシュ」になりそうなものなのに違うし。人生謎だらけ。
1月17日(火曜) 夜
本日誕生日にて、32歳になってしまいました。
年をとること自体はもう慣れているので大した感慨も悲哀もないのだが、誕生日がくるたびに「こんな自分が○○年も生きてきたのか…」という情けない気分だけは味わってしまう。なんというかこう、なんの役にも立たない無駄飯食いが、のうのうと生き永らえているような。
深沢七郎の『生きているのはひまつぶし』からの一節。
めんどうくさいから生きてこなければよい。死の世界は、生まれる前の世界。死ぬってことは、生まれる前の世界に帰ることだからね。そこには苦しいこともナーンもないからね。生きていくのはけっこうめんどくうさいから、生まれてこないほうがよかったね。オレは生まれたことに特別に感謝はしない。正宗白鳥が「誕生日はのろうべき日」といってるが、このほうが正しいね。
確かにねえ。生命なんてそもそも、繁栄を目的として自然発生した現象に過ぎないんだし。
個人的には、自然界にとって生命が害虫的存在であるとしても、そういうのを含めて「自然」なのかもなァと思うけれど、見方によっちゃあ誕生日は「呪うべき日」だというのもよく分かる。
…とか言いつつ、誕生日のお祝いメッセージとかいただくと単純に喜んでいる自分。まァ小生などは、この程度の人間です。
「祝う」と「呪う」って、字も似てるからいいか。誕生日呪賀会。
お祝い事は見方を変えれば、お呪い事になるという一例ですな。その逆もまたしかり。
1月16日(月曜) 夜
考えられないようなミスが起こる瞬間というのがある。
今日がそうだった。
仕事で先方にプレゼンすることになったのだが、パソコンが使えない場所だったので、メモ用紙に要件を書きながら提示する運びとになった。こういうことは時々あり、相手にとって読みやすいよう配慮しながらメモ書きしていくことになる。
で、ぼくも相手にとっての読みやすさを考えて、文字を逆さに書きながらプレゼンしておったわけですが(こうすると相手にとって正位置の字になる)。
「ex. テニス、さんぽ〜」と列挙していたとき、凍りついてしまった。再現するとこんなことになってしまったのだ。
<先方側>
<自分側>
動揺のあまり冗談っぽくフォローする余裕もなく、「ま、まちがえました!」とだけ申し上げて、そのまま説明を進めてしまい。
もうどうしようもないな、と思うばかりです。
−−−
そういや以前、親戚を亡くされた取引先の人と雑談していたとき、こんなことを口走ってしまったことも。
「あなたの奥様のご主人がお亡くなりになったんですか…」
どうしようもないのは、ずっと前からだったようです。
1月15日(日曜) 夜
売れずに貧乏している芸人や漫画家が、ティッシュを食べて空腹をしのいだというエピソードをよく耳にする。
ティッシュを茹でてポン酢で食べたとか、そのままで醤油をかけて食べたとか。
しかし考えてみると、こういう食材に限って結構美味しかったりするものである。パンの耳だって大根の葉っぱだって、貧乏人の食材のように言われているけれど、実際に調理してみたらすこぶる旨かったではないか。
ならばティッシュだって…。
というわけで今回、ティッシュを用いた料理を作ってみました。好物のハンバーグにて。
◆ハンバーグの下ごしらえハンバーグの材料(3個分):
・タマネギ中一個
・ニンニク1片
・合い挽きミンチ200g
・パン粉適量
・卵1個
・ティッシュ3枚
・ナツメグ少々
・塩コショウ
・サラダ油タマネギとニンニクをみじん切りにします
みじん切りしたものをソテーして加えます
挽き肉、パン粉、卵、ティッシュをよくかき混ぜまぜ、塩コショウとナツメグで味付けします
タネの中の空気を抜きながらハンバーグの形に整えていきます
真ん中にくぼみをつけ、よく熱したフライパンで焼いていきます
◆焼きあがる頃合を見てソースを作るソースの材料:
・バター
・シメジ(もしくはマッシュルーム)
・デミグラスソース
・ビーフブイヨン(固形スープでもOK)
・塩コショウ
焼き色がついたら裏返し、両面に火が通ったら完成です
シメジをバターでソテーします
そこにデミグラスソースとビーフブイヨンを加えてしばらく煮ます
焼きあがったハンバーグにソースをかけて完成です!!
中に入っているティッシュが食感にアクセントを添えてくれます
さっそく食べてみたところ、ティッシュが口の中でからまり、噛んでも噛んでもクシャクシャ残るので、非常に不味くいただきました。
ハンバーグを作るときには、ティッシュを入れないほうが美味しく出来上がるようです。
1月14日(土曜) 夜
そういやパチスロにハマっている知人がいる。
もちろん勝ったり負けたりしているらしいが、実際には月に十万円単位で損しているという。借金こそしていないものの、負けがこんでくると食費を切りつめたり、交際費を減らしたりしているらしい。まさにパチスロ人生である。
ギャンブルに縁のないぼくとしては、こういう生き方にはちょっと憧れるものの、「パチンコなんて業界があれだけ潤っているのだから客が損するのは当たり前」「なんで負けるために大金をつぎ込むのか?」と常識で考えてしまう。
でも我が身をふりかえると、何の得にもならないのに大酒を飲んだりしているのだから、パチスロ狂いの知人を批判する権利などないことにも気づく。こうして書いている日記だって、時間を 浪費している点では似たようなものかもしれない。
人がみな、何かに「依存」しているとはよく言われること。その依存の対象が、仕事だったりスポーツだったり恋愛だったりすると社会的に評価されるけれど、ギャンブルだったりアルコールだったりすると社会的に非難される。
要は「社会的適応」に支障があるかないかで判断されているだけの話。それで本人や周囲が困っていないなら全然構わないが、本人や周囲が困り始めると、さてどうしたものかということになってくる。
依存というのは生命体の本質なのかもしれないなァとも思う。そして依存は、たいてい快楽原則にもとづいている。
生命はそもそも、海水中で増殖しやすいアミノ酸なんかに起源があると言われている。その存在が周囲の物質よりも増殖しやすい性質を持っていたから、環境の中で増え続けた。周囲の物質を駆逐しながら、どんどん増殖していった。
そんな中にあって、他のものを食べて吸収する性質を獲得した存在が誕生し、 それが次第に生命体として幅を利かせていった。地球環境において生存に有利な生命体は生き残り、不利なものは吸収され消滅していった。そして、生存 に有利なこと(餌を食べたり異性を獲得したり)に快楽を感じるようなプログラムが、洗練されながら生命体に受け継がれてきた。
…というのが、進化論のおおざっぱなところだろう。
人類の場合、生存に有利な形質として高度な思考能力を獲得し、さまざまな文化や娯楽を発達させてきた。…のはいいけれど、その一方で原始的な形質も温存されているからタチが悪い。問題となるような依存性にしたって、本来は合目的的な行動として獲得されてきた 報酬系(快楽を感じる脳内メカニズム)が、おかしなふうに暴走してしまった結果ではあるまいか。
ギャンブルの場合、「勝負事に勝つと気持ちいい」のは本来、生命にとって適応的な形質だったはずだ。勝つと快楽を感じるプログラム が生存競争に有利だったことは想像にやすい。しかしながら、人間の考え出した概念である「お金」には、その増減に限度がない。
アルコールにしたって、かつての自然界では滅多に入手できなかったものが、今の社会では安値でいくらでも購入できる。限度がないものなんて過去の自然界にはなかったから(摂食や性交には限度がある)、プログラムが 珍走して際限なく快楽を追求してしまう者が出てくる。
そして、お金もギャンブルも薬物もない原始時代においては適応的であった報酬系が、今の社会では非適応的になってしまう。 幸せを感じための生命プログラムが、逆に我々を不幸へと突き落とす。ちょっと面白いことになってきてるなと思う。ギャンブル依存、薬物依存、名声依存、コミュニケーション依存…。
だから人類はいい。 こういうアンバランスさがあるからこそ、いろんなものが生まれるのだろうから。
−−−
…てなことを先ほど、トイレで延々と考えておりました。酔っ払ってウンコしようとしたら便秘だったもので。
1月12日(木曜) 深夜
本日の写真を3点ほど。
みかん一盛り300円。竹100円。
これを「鮮魚」と言われても。
ナ、ナント40円引き!!
お粗末さまでした。 本日は疲れてるので、これにて失礼します。
1月11日(水曜) 深夜
ぼくはパチンコの類はほとんどやらないのだが、エヴァンゲリオンやら北斗の拳やら、いろんなアニメの台があるらしい。
ただ、どれも超メジャーな作品ばかりで、ちょっと不公平な気がする。ここはひとつ、もう少しマイナーな作品も取り入れるべきではないか。
そこで今回は、「つげ義春・無能の人パチスロ」を考案してみました。
BGMはやはり、ゴンチチでしょうか。大音響で。
いつかパチンコ業界に登場するといいなと思います。
1月10日(火曜) 深夜
子どもが電車の改札を通るたびに、親に確認メールが届けられるサービス。
多発する誘拐事件を防ぐために開発されたらしいけれど、なんだか子どもが可哀相だなあと思う。
自分が小学生だった頃をふり返ると、塾からの帰るときはひとつ手前の駅で降りて、駄菓子屋とか園芸店に寄り道するのが楽しみだったのを思い出す。親には「授業が延びた」とウソをついて、ベビーコーラ片手にハエトリグサなどを鑑賞する、というが当時のライフスタイルだった。
改札を通るたびに親への確認メールが届くようでは、こんな道草もできなくなるだろう。
さらに今後は、電車の改札だけでなく、バスに乗り降りしたり店で買い物したりするたびに確認メールが送信されるようになるかもしれない。GPSを用いて、今どこにいるかが随時モニターされるようになるかもしれない。
小学生当時といえば、下校途中、毎日のように竹やぶの奥深くでエロ本を探していたものだが、GPSで監視されていたら大変な騒ぎになっていたところだ。警察に捜索されて発見された小学生が、雨に打たれたエロ本を回し読みしていたとなれば、親だって大恥をかいていたに違いない。
こういうシステムがいくら発達したところで、それを犯人に利用されたらおしまいである。誘拐犯から脅迫電話がかかってきて、慌てて捜索隊がGPSを追跡してみたら、ほっつき歩く野良犬に行き当たったなんてことだって 十分ありえる。
近い将来、新生児の体内にGPS発信機を埋め込む手術が行われたりする時代が来るんだろうか。
生涯にわたって所在地がモニターされるようになったら、誘拐犯罪は減るかもしれないけれど。
その子たちがオトナになったとき、浮気とかはどういうことになるんでしょうねえ。オフィスのトイレか。うわー。
1月9日(月曜) 深夜
デパートのトイレで小用を足していたら、マフラーが垂れてきて「かかって」しまった。
おまけに隣で用を足していた客までもが、「コイツどう対処するつもりだ?」という好奇の眼差しをチラチラ向けてきやがる。
何事もないかのように、そのまま颯爽とトイレを立ち去りました。
−−−
さて、本日のありがたいお言葉です。近所の寺にて。
イチローに打撃成績がおよばない選手の皆さん、まだまだ努力が足りないらしいですよ。現在の二倍、三倍の時間をかけて練習しましょう(それで体を壊しても責任はとりませんが)。
というか坊主なら、追いつきたいとか追い越したいとかの煩悩こそ戒めるべきではないのか。「努力すれば追い越せる!」だなんて、そこらのオッサンの説教と同じことである。
ところで、坊主の世界ではなにが「追いつき」「追い越す」の基準なんだろう。やっぱり収入か。
1月8日(日曜) 深夜
生体認証が本格的に普及しはじめている。
指紋認証を用いた携帯電話やパソコンはすでに販売されているし、手のひらの静脈認証を導入した銀行ATMも登場しているという。これならカードやパスワードが盗まれる心配がないから、セキュリティ面での堅牢性が飛躍的にアップするというのが謳い文句である。
ほかにも顔の輪郭パターンを判別する方法、目の虹彩を読み取る方法など、いろんな技術が実用化されているらしいけれど。
生体認証も万全ではない。手のひらにしても虹彩にしても、こっそり偽造されたら一巻の終わりだ。ATMのパスワードは盗撮事件が判明して問題となったが、手や目を盗撮するのはそれよりも格段に簡単 である。他人の目の写真で預金が引き出せるとなれば、こんなに恐ろしいことはない。
偽造防止策として、生体センサーでバイタルサイン(虹彩の微妙な動きや血流、体温など)をチェックする方法などが開発されているとは聞くが、これだって動きや温度を偽装されたら一巻の終わり だ。生体認証 の導入に際しては、利便性だけでなく、偽造されにくさも十分考慮しなければならない。
こう考えると、人体のなかで最も盗撮されにくいのは洋服で隠された部分、すなわち陰部だと考えられる。陰茎や陰唇の形状および血管構造を認識することによって、堅牢なセキュリティを実現 するわけである。着衣という普遍的な文化背景を、生体認証という先端技術にそのままスライド利用できるなら、経済効率の面でも合理的ではないか。
陰部認証システムは携帯電話などには不向きだが(通話のたびに陰部を出すのは大変だ)、ATMや機密情報、警察当局といった重要な場所においてこそ、その本領を発揮する。ブースが施錠できるボックスルームになっていれば 、羞恥心の問題もクリアできよう。
陰部認証の問題点としては、その時の状態によって陰部の形状や血流量が大きく異なるという点が挙げられるけれど、とりあえずニュートラルな状態を登録しておけばまず大丈夫 だろう。
ようし、これで万全ではないか! 一刻も早い実用化を!!
とは言ってみたものの。
殿方の場合はどうしても虚栄心が出てしまい、「少し大きくなった」状態で登録する者が後を絶たないのではないかと危惧している。とくに政府高官など上昇志向の高い人物ほど、この傾向は顕著であろう。たとえ相手がパソコンの認証装置であっても、少しでも「ビッグ」な自分を演出したくなるのが男心というもの(そうなのか?)。
とりわけ、見栄を張りすぎて、「ものすごく大きくなった状態」で登録してしまった輩などは大変である。社内の機密情報を参照しようとセキュリティルームに入ったはいいが、認証させてみたら "ACCESS DENIED. BECAUSE IT'S TOO SMALL" のアラートが。あわててエロいことを考えて大きくしようとするも、焦れば焦るほど言うことを聞かなくなるのが「愚息」 たる所以。ああ畜生、肝心なときに引っ込み思案でどうすんだ!!
…といった見栄っ張りの問題さえクリアすれば、かなりいい認証システムだと思うんですが、どうでしょうかねえ。陰部認証。
ちなみに、陰部認証が導入されたあかつきには、ハメ撮り写真なんかはご法度ですな。某氏のようにネットに流出したら預金おろされ放題です。それも、屹立した状態のモノを偽造したのがそのまま受理されて、よけいに恥をかいたりして。
1月6日(金曜) 深夜
たばこのマールボロを「マルボ」と略してる人に出会った。
こんなの聞いたことがない。普通あまり略して言わないし(マルボロと縮めるのはあるけれど)、略すとすれば、「赤いマールボロ」(元祖のやつ)が「赤マル」に、「マールボロ・メンソール」が「マルメン」になるのではないか。
いやまァ、どんな風に呼ぼうが個人の勝手なんだけれど、こういう自分流の略称ってなんか小っ恥ずかしい。略称にはだいたいコンセンサスがあり、それは自然発生的に定着してきたものという前提があるからだろう。こういうのを一個人がくつがえそうとすることに違和感を抱くというか。
芸能人の呼び方にしても、たとえば妻夫木聡なら「ツマブキくん」とか「ブッキー」とかになるのであって、これをいきなり「ツッマーさん」などと呼んだら恥ずかしいだろう。あるいは所ジョージだって、「トコロさん」がこれだけ浸透しているなか、勝手に「ジョージくん」なんて呼ぶのはかなり恥ずかしい。
でも一番恥ずかしいのは、自分(&それにまつわる事柄)の愛称を自分で決めちゃう人なんですけどねえ。
…以上、本日の「プチニ」でした。
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さて本日、Go smoking に書かせてもらってるコラムがひさしぶりに更新されてます。
今回のテーマは「極端な嫌煙ムーブメントよ永遠に」。 なんか全体的にナメたようなことを書いてますが、たばこに関しては世の中のバランスがちょっとおかしなことになってきているなァ、と感じているのは事実でありまして。
よろしければご覧いただければ幸いに存じまーす。
1月5日(木曜) 深夜
高校の頃、選択科目で美術の授業をとっていた。
その教科書ではピカソの特集が組まれており、青の時代から抽象画にいたるまで何点かの作品が収録されていた。しかしながら、「ゲルニカ」はなぜか参考程度にしか紹介されておらず、しかも小さなサイズで紹介されていた。オリジナルは全長7メートルくらいあるというのに。
戦争の悲惨さをえぐりだす気迫は、この巨大な大きさがあってこそ伝わってくるものだろう。なのに数センチの小さな画像になってしまってはこれ、心底マヌケなことになってしまって。
今回はためしに、「ゲルニカ」をいろんなサイズで紹介してみたいと思います。
「ゲルニカ」 パブロ・ピカソ 1937年 |
「ゲルニカ」 パブロ・ピカソ 1937年 |
「ゲルニカ」 パブロ・ピカソ 1937年 |
「ゲルニカ」 パブロ・ピカソ 1937年 |
「ゲルニカ」 パブロ・ピカソ 1937年 |
ゲルニカも小さくなるとかわいいですねえ。豆ゲルニカ。
米粒にゲルニカを描いた「ゲルニカ米」なる作品の登場を期待したいところです。
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そういや、携帯電話でテレビや映画が見れるようになるんでしたっけ。
あの画面サイズでは、ボブサップだってシュワルツェネッガーだって豆サイズですな。豆サップ、豆シュワ。
豆サイズになったシュワさんの心境やいかに?
1月4日(水曜) 深夜
常日頃から伝統的な言葉遣いを心がけておる小生でありますが。
たまにうっかり、世間の言葉を口にしてしまうから恥ずかしい。今日もそうだった。
ぼく:「自分が買った服って、絶対バーゲンで安くなるじゃないですかぁ」
同僚:「ならないですよ」
どうもすみません。ちぇっ。
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全然関係ないが、ぼくの両親は割と教育熱心だった。
なので小学校の頃から、塾に行けだの勉強しろだのと口うるさく言われていた。ただ、ここにひとつ問題があった。
勉強していい点数が取れれば、マンガを買ってもらえたり小遣いをもらえたりしたのだ。
これは心理学的には最悪の展開である。なんとなれば。
何かにがんばる原動力が対象への興味・関心にある場合、これを「内発的動機づけ」と呼ぶ。他方、その原動力が対象そのものではなく、外的な報酬にある場合、これを「外発的動機づけ」と呼ぶ。そして内発的動機づけは長続きして力となる一方、外発的動機づけは報酬がなくなれば努力しなくなるので力にならないことが知られているのだ。
ぼくの場合もまさにその通りだった。当初はマンガや小遣いが手に入るからがんばって勉強し、それなりにいい成績をとっていたのだが、親のほうもずっと小遣いを与え続けるのが惜しくなってきたのか、いい成績をキープし続けても次第に何ひとつ与えてくれなくなってきたんである。
当然のことながら勉強する気など霧散し、成績は飛ぶ鳥を落とす勢いで下がりはじめた。教育熱心な親のおかげで、勉強嫌いという性質だけはすっかり身についてしまったのだ(その代わり時間があるので、毒物の本とかは夢中になって読んでいたけれど)。
これによく似た話は本などにもよく登場する。
ずいぶん前の日記に書いたかもしれないが、たとえば暴走族を街から追放したおばさんのエピソード。
こう考えると、いろんな投票ランキングなんかに参加しているサイト管理人を閉鎖に追い込むのも簡単そうですな。
何十人かで共謀して、しばらくの間ずっと順位を上げ続ける。手抜きだろうがなんだろうが毎日ずっと投票し続ける。そしてある日を境に、次第に投票数を減らしていく。いくら気合いを入れて書いても、どんどん投票数を減らしていく。…こんな風にされたら、たいていの人は更新する気などなくしてしまうんではないだろうか。
報酬は単純なところで人を動かしてしまうので、けっこう恐いのでありますよ。
1月3日(火曜) 夜
親戚の集まりがあったので、京都は亀岡市まで行ってました。
退屈なので周囲をぶらぶら散歩していたときに撮った写真を何点か。
以前はしょっちゅう、関係者以外の人が立ち入っていたんでしょうか。亀岡の人たちはマンホールに入るのがお好きなようで。
「かわそう笑顔」というフレーズに「おおっ!」と思った掲示。そうそうそう! 笑顔で近づいてくる奴には用心すべし。サッとかわして、やり過ごしたほうがいいんだ。亀岡の人はよく分かってござる!! …と共感した直後、そういう意味じゃないかもと思い至る。
なぜか植木にかぶせてあった覆面。いまは懐かしいロックフラワーのようです。亀岡の人は植木で人を恐がらせるのがお好きなようで。
これで「亀岡人」がどういうものか、おおよそお分かりいただけたかと思います。マンホールに入りたがる性癖がある一方、笑顔をかわして避ける知恵もありつつ、植木に覆面をかぶせる恐ろしい一面も…。ますます分からしまへんわ!!
写真は真実を写すからこそ「写真」なのです。どういう風にも切り取れるけれど。
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おまけ。亀岡の「おせちセット」です。母方の祖母の手製。
ウチの実家の「おせちセット」もほとんど同じなので、京都ではこれがスタンダードと思ってたんですが。
よく考えたら、ウチのおせちは母が作ってんだから似てて当たり前だ。
1月2日(月曜) 夜
正月休みもあと一日だけか。
連休っていつも、終盤になると「アッという間だったなあ」と思う。
長い休み、なんていうのは存在し得ないのかもしれまへんね。
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ところで本日も、実家にて過ごしていたわけでありますが。
自分の部屋の電灯カバーが割れているのを見て心底情けない気分になった。
ぼくが中学生の頃に割ったものである。
ロックにかぶれていた当時、エレキギターを買ってもらえなかったので、やむなくバドミントンのラケットを抱えて「激しいプレイ」にいそしんでいたのだ。で、ハードロックに合わせて空ギターしていたら、知らない間にボルテージが最高潮に達してしまい。
「キョエーッ!」などと叫びながら、ラケットをスマッシュのように振り下ろした瞬間、ベリッという鈍い音とともに電灯カバーの破片が舞い落ちてきたのだった。
ギターのつもりで手にしていたラケットが、最高潮にいたってバドミントン本来の動作になってしまった間抜けさ加減。こんなもん、ちっともロックンロールじゃあない。 というか、これはロックとは対極の位置にあるものではないか。
キース・リチャーズがライブ中にギターを握りなおして、バドミントンのスマッシュを真似するだろうか?
…本気で恥ずかしくなってきたので、「デストロイしてやったんだぜ!」ということにしておこう。電灯のカバーだけど。
1月1日(日曜) 深夜
明けましておめでとうございました。実家に来ております。
実家に帰るといつも実感させられるのが「モノの多さ」だ。これが骨董品やら金品やらで足の踏み場もないというなら大いに結構なのだが、我が家の場合は残念ながらそうではない。
母親がなんでもかんでも溜め込む癖を持っているものだから、当然の帰結として、なんでもかんでもが家の中に山積してしまうんである。「モノを大事にする」と言えば聞こえはいいけれど、何事にも加減というものがある。
そこで今回は、母親のコレクションの一部をを紹介してみたい。
かまぼこ板
惣菜の焼き鳥に付いていた串
ペットボトル各種
スーパーの袋
デパートの紙袋
ハマグリの殻までもが
袋くらいなら使い道もまだあるだろうが、かまぼこ板や串など、こんなに大量に溜め込んで一体どうするつもりなのか?
…と呆れていたら、かまぼこ板が「使って」あるのを発見して唖然。
「調味料置き場」「オリーブオイル置き場」として
活用されてました
どう見ても無理やり使ってる。なにかに使いたいから使う、いわば純粋使用ですな。
今年もよろしくお願いします。